[読書メモ]『映画館へは、麻布十番から都電に乗って。』

p9
今と違って映画は映画館でしか観られなかった。たくさんの映画を観ることは、たくさんの映画館とめぐり逢うことでもあった。映画は絶えず映画館の印象と共に記憶された。

p59
ヨーロッパ映画が一品料理とすれば、ハリウッド映画は洋食屋の定食といった感じだ。時には味わいのあるこだわりの一品料理もいいが、育ち盛りの高校生にとっては、満腹感が得られる定食が何よりだった。

p80
高校3年生になって、大学受験のことを考えなくてはならない時期が来た。別に逃げているわけではなかったが、相変わらず映画館へは通い続けた。映画の中が日常で、現実の生活が非日常かと思うぐらい、片っ端から観ていた。

pp89-90
最近の映研[=映画研究会]は制作志向が強いが、当時は評論中心だった。現在は簡単に動画が取れるデジタルカメラが普及しており、その気になれば容易に制作が可能な状況だ。しかしデジカメも、ビデオテープもない時代は映画はフィルムでしか撮れなかった。16 ミリで撮るにしても費用がかかり、せいぜい年に1本か2年に1本制作できるかどうかだ。したがって日常の活動はやはり映画を観て評論しあう合評会が中心となった。/合評会は単に作品の印象だけを語り合う場ではなく、その作品で感じたことについて、なぜそう感じたのかを説明しなければならない。少しは論理的に説明出来ないと先輩たちから見方が甘い、浅いと突っ込まれるのである。合評会はミーハー的な鑑賞姿勢を問われる会でもあったが、映画の評論を通して自己を表現する訓練にはなった。

p196
シネコンが中心の現在の興行形態は、全席指定席制もしくは定員制が中心になっているが、当時の興行は、上映時間に関係なく、好きなときに入場し、好きなときに退場する、いわゆる “流し込み” が基本だった。

p250
ダフ屋のダフはふだ(札)を逆さに表現したもので、たね(種)をネタ、やど(宿)をドヤ、ばしょ(場所)をショバと表現するのと同じ倒語である。

p236
この 70 ミリ映写機はディメンション 150(D150)と呼ばれ、人間の視界限度は 150 度だということで、左右 150 度に湾曲した 70 ミリ酔うのスクリーンに D150 のレンズを使用して歪みなく映写する方式が売り物だった。

p263
センサラウンドとは SENSE(感覚)と SURROUND(包囲)の合成語で、人間には聞こえない超低周波の音波をスピーカーから発して場内の空気を振動させ、地震をあたかも体感しているような効果を出そうという仕掛けだ。この超低周波はロスアンジェルス大地震のデータを参考にしたと、当時来日したプロデューサーは語っている。