[読書メモ]『他人を支配したがる人たち』

p165
法廷で「真実を、すべての真実を、そして真実だけを語る」ことを誓えと命じられても、嘘などいかようにもつける方法があるのをよく知っている者もいる。

pp165-166
“重要な言葉を伝えずに嘘をつく” 方法は、マニピュレーターがよく使う手であり、きわめて見破りにくい。

pp171-172
話のテーマが相手の耳の痛い点におよび、私から目をそむけるようなら、私はそこで話を中断する。子どもがこちらに向き直って視線を戻し、話を聞き入れるようになれば再び話を始める。私が “選択的話法” と呼んでいる手法だ。/耳が痛くなる話でもあえて耳をかたむけようと努力する子ども、できれば避けて通りたい話題でも向き合おうとする子どもに私は称賛を惜しむつもりはない。そうした姿勢はいつも認めるようにしているし、人の話はきちんと聞くように私はさかんに勧めている。こうした努力の価値を認めることによって、子どもたちの自尊心の感覚もはぐくまれていく。/人というものは、何かを受け入れつつ、それと同時に受け入れるのを拒むことなどできはしないと覚えておいてほしい。だから、相手がわざとこちらから顔をそむけるときに、あれこれ言っても時間の無駄である。相手がかたくなな態度(あるいは戦闘状態)を解いてこちらに注意を向けるようになってこそ、こちらの話も相手に伝わる。

p187
「無実を装う」と非常によく似ているが、こちらは「無実」を装うのではなく、相手が話す内容について無知を装ったり、自分の注意をうながそうと躍起になっている相手に対して困惑したようすを装ったりすることをいう。“しらばっくれる” ことによって、自分に向けられた相手の詰問の正当性を疑うようにしむけたマニピュレーターならではのやり口だ。

p188
なぜこちらを攻撃しようとするのか、面と向かって相手にその理由を問いただしても、おそらく本人は “知らない” と言い張る場合がほとんどだろう。だが “まったく知らない” という相手の言い分などに決して耳を貸してはならない。

p188
私の研究や他の研究者の調査では、怒りを意図的に現す行為は入念に練られた計算にもとづいており、人を威嚇して支配するという点では、人間関係を操作する手段としてこれ以上ない方法であることがわかっている。

p205
相手がなぜこんな行為におよぶのか、それに対して “深読み” をしたり、あれこれ思いを巡らせたりしてはならない。とりわけ、それが人に危害を加える意図で行われた場合はなおさらだ。相手の真意を知ることなどできるものではないし、いずれにしろ相手のその行為はこちらにとって不適切なものでしかない。相手の思いを斟酌(かんしゃく)することにとらわれては、こちらの注意が肝心の問題からそらされてしまうので相手にはむしろ好都合なのだ。判断するなら相手の行為それ自体だ。相手の行いがなんらかの意味で問題なら、注意を向けるのはその行為であり、対処するのもその行為に対してなのである。

p208
頼みごとをするときは、自分が何を望んでいるのかはっきりと相手に伝える。かならず「私は」と語るようにして、曖昧な言い方を避ける。

p209
ダイレクトな返事だけを受け入れる

p210
過去の問題を引き合いに出したり、将来を想定したりするのではなく、現前の問題に注意を集中させるのだ。これはきわめて重要である。

p214
相手に立ち向かうことに怖じ気づく必要はないが、その際に気をつけるのは、率直に向き合おうとするあまり、攻撃的になりすぎてはいけないという点だ。問題にすべきは相手の不適切な言動だけである。いたずらに中傷したり、おとしめたりすることなく相手と立ち向かえるのは、すぐれた交渉力と言えるばかりか、マニピュレーターとの話し合いを効果的に進めるためにどうしても欠かせない技術でもある。

p215
攻撃に対して攻撃で応じてはならないのだ。自分を守るために本当に必要なこと、自分の要求をなしとげるために本当に必要なことだけに専念すればいい。

pp234-235
第三に、「強引に自分の考えを押し通す(アグレシブネス)」ことと「明確に自己主張をする(アサーティブネス)」のちがいを子どもたちがきちんと理解できるようにしておきたい。そのためには、腕白で生意気、わがままだからという理由で子どもを叱ってはならないだろう。