[読書メモ]『立花隆の本棚』
p8
しかし、気軽に本が買えるようになってからは、くだらない本を一冊一冊はじめから終わりまで読むくらい、馬鹿げた時間の使い方はない、そういう本は一刻も早く読み捨てにすることこそが大切だ、と思うようになった。
pp8-9
やはり、若い才能というものはあるもので、昔のいい本にもう一度出会うのもわるくないが、若いブリリアントな才能に出会うほうが、ずっとワクワクする。
pp56-57
日本のマスコミは伝統的に一部の科学部員以外、サイエンスに極端に弱い人たちの集まりですから、ノーベル賞の対象となった研究の意義がちゃんと解説できない。
p68
なぜぼくがサルの研究にはまったのかと言えば、やはり、人間の研究とサルの研究が相互交通していると思ったからです。
p73
ぼくは精神分析の世界を基本的に信じていないから、正直あまりピンときませんでした。何と言うか、つけられた理屈があまりにもっともらしくて、いま一つ信用できない(笑)。[…]結局、精神分析の世界は、信じる人は深く信じるけれども、信じない人はさほど信じない。そういう世界のように思います。
p85
けれども、ぼくは現時点ではネットの辞典は使っていません。どうして使わないかと言えば、知りたい情報が入っていないからです。ネットで検索できる辞書というのは、だいたい『広辞苑』(岩波書店)くらいまでだと思いますが、『広辞苑』程度の情報では、仕事には使えません。
p85
職業として文章を書くようになってからは、『広辞苑』はほとんど使っていません。ある時期は使っていましたけど、そんなに熱心には使っていない。「『広辞苑』によれば」という表現を安易に使う人がいるけれども、もともと、あれが嫌いだったんですね。だから「『広辞苑』によれば」だけはやるまいと思っていました。
p91
そちらの『OED(Oxford English Dictionary)』は、箱の中に、虫眼鏡のような専用の拡大鏡がセットになって入っています。[…]文字の大きさは極小なので虫眼鏡で見ないとわからないほど。それゆえ拡大鏡がセットされているわけです。
p93
もしある本が必要になったのに、探しても見つからなければ、一度買ったものでも何度も買ってしまう。時間がもったいないですから。
p94
先ほど、同じ本を二冊買ってしまうという話をしましたが、なくしたと思っていた本が後になって見つかると重複することになりますね。では、そうした重複した本を売るかと言えば、売りません。それはそれでとっておく。何冊にもなった場合には、人にあげたりすることはあります。特に若い人に。
p110
現在の電力 10 社体制というのは、何らかの合理的な意志で作られたものではなくて、歴史の流れでできてしまったものに過ぎません。
pp110-111
「アメリカに 100 基原発がある」と言っても、東電が持っているような超特大クラスの原発があちこちにあるということではありません。基本的には、小型で、軍事用でもあるのです。そうした、小さな単位でさまざまなタイプの原発を並行して所有するという方向に進みつつあるアメリカは、新たな小型原発を作り出す可能性があります。
p115
原発不要論というのは、つまり「原発というのは人間にはコントロールしきれないメカニズムなのだ」という主張ですが、現実には、とっくの昔にそうではなくなっています。人間のコントロールが及ばないのは、むしろ今回福島で事故を起こした、あの旧タイプの原発ぐらいのものなのです。
p116
この感じは、日本人の台風に対する感覚に近いと思います。台風によってときどき深刻な被害が出るけれども、日本人はそれが一過性のものとわかっているので、基本的にはそれほど怖がってはいません。何年に一度、台風で被害を蒙るのは仕方がないことで、もうこんな台風が来る国なんて嫌だから国外へ逃げましょうとはならない。
p120
蓄電池については、大規模のものは現在はまだ実用化されていません。同様の蓄電能力を持っていると言えるのが、揚水発電です。電力が余っている時間帯に低い位置の水を高いところへ汲み上げて、電力が必要なときに、その水を落として発電する。要は、余剰電力を位置エネルギーに換えて保存しておくというものです。
p121
原発を含めて、これらの研究自体を禁止するようなことは、あってはいけません。研究の自由というのは、現代社会で最も重要なものです。
pp122-123
フランスが原発分野に圧倒的な自信を持っているのは、原発を利用してきた歴史が長いこともありますが、何より放射能に関わる科学が、すべてフランスで発展してきたからです。
p147
現代人、特にヨーロッパ以外のところに住んでいる人については、そのキリスト教の原点を見失ってしまうことが多いです。そしてヨーロッパ人であっても、抽象的な宗教論議を得意とするようなインテリにとっては、つい頭から飛んでしまうのですが、キリスト教の原点は、もともと土着宗教であったという事実の中に見出せるのです。
p148
日本人にとってのキリスト教は、ちょっとモダンで、外国風で、知的で洒落ているという感じがあると思うのですが、そういう感じはまったくない。その土地に根付いている昔ながらの宗教儀式という感じです。それは何とも泥臭い密儀宗教的要素を色濃く持っていました。
p180
こうして自著を書棚に置いているからといって、読み返したりすることはありません。でもときどき、ふと必要になって手にとるんですが、読み出すとけっこう面白い(笑)。まあ、面白く読めるように、どの本もそれなりに苦労して書いていますから。
p181
アメリカの大統領を考えてみても、1期4年で、最長2期ですから計8年です。しかも、最後の2年はほとんど権力が使えないレーム・ダックなのですから、実質は6年です。
p207
世界標準に知識を近づけるという意味では、サイエンス系のほうが簡単なんです。今の日本の大学は、トップレベルであれば、十分に世界と同じだけの知識も蓄えていますし、新しい研究も行っていますから、大学でひと通りのことを学べば、一応は世界の水準に到達します。/しかし、文化系の知識は深みがまったく違います。特に文学と哲学に関しては、よほど腰を据えて独自に勉強をしないと、大学の授業をこなしたくらいでは、西洋人のごく平均的なレベルの知識を身に付けることすらできないと思います。
p211
哲学に関しても、プラトンやアリストテレスの入門書をナナメ読みしただけの人と、注釈がたくさんついた全集などを使って本当に深く読んだことがある人とでは、理解のレベルはまったく変わります。
p212
ぼくが再入学したのは、文学部哲学科でしたので、おかげで「本を読み込む」という経験をたくさん積むことができました。
p258
古今東西、文化が育つためには経済的な土壌が必要なのは変わらないと言えるかもしれません。
p282
「レベル合わせ」が正しいコミュニケーションの基本です。
p283
哲学の世界においては、ある時代の問題群と今現在の問題群とは、ものすごく異質なものになっています。そうした違いを理解している人と理解していない人の間では会話が成り立たない。
p284
サイエンスでは、それがより色濃く出てきます。サイエンスの世界では、「基礎概念中の基礎概念」にあたるのが、数学であることが多いのですが、この数学ほど、本格的に取り組んだことのある人とそうしたトレーニングをまったく積んでいない一般的な人との間で、認識のズレが出てしまう分野はありません。日本の学校制度に乗せて言えば、高等学校で文系のコースを選択したか、理系のコースを選択したかによって、サイエンスの世界を理解する土壌そのものに大きな違いがあるのです。
p330-331
取材というのは、実際の取材に行く前の、「資料集め」から始まっているわけです。この資料集めが上手くいったかどうかで、インタビューの質がまったく違ったものになりますし、結果的にいい記事が書けるかどうかにもつながってきます。
p335
大学生の学力低下というのは、大学の先生にとっては最高の酒の肴なんですよね(笑)。飲むと必ず出てくる話題の一つが、こういうバカがいたという話です。
p335
今は高校の延長のように手取り足取り学生に勉強を教えるような大学が増えているようですが、大学は本来、「先生に教えてもらう」ところではありません。大学というのは、「自分で学ぶ」ところなんです。その違いを日本人がわからないようでは、これからもバカな大学生はどんどん増えていくと思います。
p342
基本的に、争い事の本質を考えるためには、一方の言い分だけではなく、双方の言い分を知ることが大事です。
p426
ヨーロッパという地域は、近代国家の枠組みから見ただけでは、よく理解できないところがでてくる。近代国家が成立する以前の文化や慣習、政治的な因襲などが根強く残っているんですね。
p435
書棚というのは、常に手を入れていないと、使い勝手が悪くなってしまうんです。/分類して並べると、問題になるのは本のサイズです。違うサイズの本を、同じところに並べるとガタガタになってしまう。けれども本のサイズを揃えようとすると、今度は中身が統一されなくなってしまう。だから、本を分類するというのは、いろいろなことを考えながらやらなくてはいけない。
p436
ぼくは、目先で起きている問題に対して、とにかく資料を集めることから仕事を始める。仕事のたびに、ひとかたまりの本の山を作って、片端からページを繰るところから始める。
p461
ものを書く人にインタビューするときは、一応その人が書いたものを読んでおくというのが、礼儀というか、当たり前の準備です[。]
p464
ウィトゲンシュタインの影響力がなぜそれほど大きなものになったかといえば、彼の登場によって従来の哲学のほとんどがナンセンスなものにされてしまったからです。
p593
議論というのは、そうした主張の対立の中で深まっていくものです。
p630
キリスト教とは何なのか、キリスト教徒とはどういう人々なのかと言えば、その人の信仰内容をもってのみ決められます。ある人が(神の前で)キリスト教徒と認められるか否かは、教会に毎日曜日行って、ある一連の典礼(儀式)に参加するか否かとか、洗礼を受けたことがあるとかないといった形式的なことによって決まるのではなく、その人が何を信じるかという信仰内容によってのみ決まるというのがキリスト教の基本的考え方です。