前職の友人を亡くした

私は1年半前までは大学事務職員として働いていた。昨日、その時の同僚 A さん(男性)が亡くなったことを知った。

事務職員時代は、職場の上っ面だけの人間関係に辟易し、私は意識して付き合う人を選んでいた。その中でも A さんは特別だった。私より数年早く入社し、3歳ほど若かったが、優しい人柄ですぐ好きになった。職場には、私をこけにする人や、私を利用する人が少なからずいた。だけど、A さんは本物の優しさがあったし、彼との間には損得勘定抜きに付き合えていた。

二人の間には適度な距離感があったし、べったり仲良しではない。同期ほどの結束感もなかった。それでも、私が職場で一番親しくしていたのが A さんだったのだ。

私が就職したての頃、会社の飲み会というものがどういうものか分からず戸惑っていたとき、近くに座っていた A さんに「私はこういうの苦手なんですよ」と話しかけると、「僕も同じです」と言ってくれた。ちょっとしたことだけど、勇気付けられた。

最初は A さんと違うキャンパスに配属されていたが、私が人事異動で A さんの隣りの部署になった。席はすぐ後ろである。その後仕事の内容でも部署間で連携することが多かった。私の無茶をよく聞いてくれた。席が近いので、しょっちゅうお菓子をあげた。たまに A さんからもお菓子をくれた。

プライベートでも映画館に3回一緒に行ったし、仕事のあと何度か食事に行ったりもした。二人とも飲み会が好きじゃないので、二人で行くのは「飲み」ではなく、「お食事」だ。仕事帰りにデパートのオシャレなレストランで食事をしたときは、スーツを着ていたこともあり、「僕たち浮いてますね」と言いつつも、なんだかんだで楽しかった。コメダ珈琲店に行ったことがないという A さんを、私もあまりコメダ珈琲店に詳しくないのに連れて行ったこともあった。

私が「持て余している Mac Mini がある」と言うと、Mac に興味があるので譲ってほしいという。ディスプレイ付きで格安で譲った。初 Mac ということで、家まで行ってセットアップを手伝ってあげた。私が職場の同僚の家に行ったのは、A さんとワイフの家だけである。

言い忘れたが、私とワイフはその職場で知り合い、私の退職後に結婚した(ワイフは今も在職中)。ワイフには今まで内緒にしていたが、「職場に好きな人がいる」と A さんには恋愛相談をしていた。「僕は恋愛経験がないので・・・」と言いつつも、いつも話を聞いてくれた。

彼はいつも昼食が手作りのおにぎり2つだけで、いつも同じビニール袋に入れて持ってきていた。私は「もっとちゃんとした入れ物に入れなくちゃ、モテませんよ〜」と言って、京都に行ったときオニギリ用の巾着袋を買い、お土産として渡した。後日、職場でその巾着袋を使っているところを見かけ、お互い何も言わなかったが、すごく嬉しかった。そのお返しを兼ねてか、後日誕生日プレゼントとして、ロボットの形をした USB メモリをくれた。かわいくて気に入った。

A さんはいつも朝8時すぎに出勤していた(仕事は9時スタート)。仕事は大変だったようだし、よく残業していた。なのに私と違って愚痴を言ったりせず、淡々と仕事をしていた。

仕事を辞めると考え始めたときも、実際に辞める決意をしたときも、A さんに相談した。「決断したのなら止めませんが、寂しくなります」と言ってくれた。

在職中と違い、退職後は全く連絡を取らなくなった。連絡してもよかったし、退職時には「また映画でも行きましょう」と言ってくれていたのに、私は連絡を一切しなかったのだ。結婚の報告すらしていない。映画や食事に誘うのがいつも私の方からで、A さん側から誘ってくれることがなかったし、誘っても断られることが度々あったので、私があまり誘うのは迷惑なのかなと、私の方から引いていたのだ。

退職後、連絡を絶ったことを、亡くなった今ではすごく後悔している。彼の死が自死であったことも、ひょっとしたら私が何らかの力になれていたのではないかとも考えてしまう。退職後に私は電話番号を変えたので、ひょっとしたら A さんが連絡を試みていたかもしれない。彼の死は私のせいかもしれない・・・。死の詳細は明らかになっていないので、「ああかもしれない、こうかもしれない」と考えを巡らすのは意味がないことは分かっている。けれども・・・。

サラリーマンにとって1日で一番長く過ごす場所は職場である。残業をするなら、なおさらである。A さんの死は多かれ少なかれ、仕事が関わると想像してしまう。職場は職員に「希望」を与えられているだろうか。私は大学に希望を感じなかっくなったので辞めた。少なくとも、A さんは飲み会を嫌がっていた。お酒が飲めないのに無理やり飲んでいた。私は適度に断っていたのに、A さんはいい人なので無理して飲み、よく吐いていた。飲み会は一例にすぎないが、こういう小さな積み重ねも希望を失うことに繋がるのではなかろうか。これを機に、「若い人が嫌がることはやめよう」という風潮になればいいが、職場の体質はそう簡単には変わらないだろう。

自死は未来への希望があれば行わない行為だと思う。私なりの希望の見出し方としては、「選択肢があると思うこと」である。例えば仕事がつらいとき、私は辞めるという選択肢を持てた。しかし、「辞めるなんてとんでもない」と、選択肢そのものを持たない人がほとんどのはずだ。でも、選択肢を持とうよ。実行しなくてもいい。ただ「いざとなれば、辞めればいい」と思えるだけでも、どれだけ楽になれるか。人は絶望を感じるとどんどん視野が狭くなり、さまざまな選択肢を見られなくなる。だからこそ、日頃から視野を広げる努力をすべきなのだ。私が大量に本を読み、映画を観ているのはその一環だ。

A さんの死については、今後詳細が明らかになるかもしれないので、深く考えるのはこのへんにしておこう。今は Evernote に書いていた A さんに関する日記を読み返したり、A さんとの SMS のログを読んで、思い出を思い返したりしている。ちょうど今広島に帰省して来たので、ぼんやりと考え事をするにはちょうどいい。