[読書メモ]『あなたも作家になろう』

p4
私は本書で、ただ書くために書くこと、つまり言葉を記すという純粋な喜びのために書くことを、あなたに勧めたい。「どのように書けばいいか」ではなく、「人はなぜ書くのか」がテーマなのだ。

p4
書くことが強力な祈りと瞑想で、自分への理解を深めて、より高次な内なるガイダンスを与えてくれるから、書くべきなのだ。

p5
私たちは書くことによって自分より高次の何かとつながり、より多くの活力と喜びを得られるのだ。

p11
ほとんどの人たちが「正しく、賢く」書こうとして神経をとがらせる。しかし、それは不可能だ。よけいな力が入っていないときのほうが、文章はうまく書けるからだ。

p15
アマチュアという言葉は、ラテン語のamare〈愛する〉に由来する

p22
時間ができるのを待つのではなく、書くための時間をつくりだしたのだ。

p22
書く時間を見つけるコツは、目的意識からではなく愛から書くことだ。

p26
私はまず判断を加えずに書き、あとで校正するという方法を学んだ。そして、その自由な書き方を「線路を引くこと」と名づけた。

pp40-41
書くことは錬金術だ。詩を書くと、私はぎすぎすした思考から包容力のあるハートに視点を移して、もう犠牲者ではなくなった。自分を取り戻し、傷は芸術として蘇った。/書くことは薬であり、どんな困難に襲われたときもふさわしい友である。書いていると創造力だけでなく観察力も発達する。事件が起きても、書くことによって人生をリライトできるのだ。

p43
そして一章書き終わると、たいてい二章、三章と続けられて、仕事は少しずつはかどる。

p44
でもね、もちろんごほうびもあげるのよ。内なる作家にホットチョコレートをごちそうするとか、手紙を書くときはきれいな切手を使うとかね[。]

p44
母は電話で同じことを言ったかもしれない。けれど心に残ったのは、母がそれを紙に書きつけてくれたことだった。母は私を愛していたからこそ、わざわざ手紙を書いたのだ。

p48
「書く気分」にならないと書けないというのは間違いだ。じつはどんな気分も書く気分としてふさわしい。コツは、気分に関わらずただ書きだすことだ。

p49
ヴァージニア・ウルフが「書くためには自分の部屋が必要だ」と述べたのは、書くためには他人の欲求やごたごたとは距離をおき、神経を集中しなければならない、という意味だったろう。つまり、物理的な書斎というより、ごたごたに巻きこまれないことの重要性を言ったのではないか。

p50
大切なのは物理的でなく心理的なドアであり、他人の侵入をくい止めるドアなのだ。

p51
創造活動には時間が大切だということも、私は自分で学んだ。日々は無数の瞬間から成り立ち、私たちは毎瞬選択できるのだ。

p54
あなたも私のように、否定的な感情を燃料として肯定的に活用できる。私の原稿は裏切りの苦痛と怒りから生まれたが、書き始めたとたんストーリーは事実を離れていった。実在の人物をモデルにした登場人物は、すぐに独自の主張や意見をもつようになり、物語は私の手を放れて自ら展開し始めた。復讐や面当てのために書き始めても、それは完璧にすばらしいスタートである。というのも遅かれ早かれ、あなたには創造的な意志と独創性があることが明らかになるからだ。現実とはまったく異なる物語世界が心に浮かび、ペンを走らせるとき、実体験の詳細にこだわり続けることはまず不可能だ。

p55
私は復讐のために書くことを提唱する。面当てのために書くのだ。あなたは「失望」というガラクタを「達成」という金塊に変化できる。長い目で見るなら、あなたは書くことによって自分に自分の力を証明するのだ。

p57
書いていると、しばしばそういう「あら探しをする人」と出会う。

p58
もっと多くのもっとすばらしい作品を生みだすためには、繊細かつねばり強くあらねばならない。そのためにはどうしたらいいか。/その答えとして、人々はしばしば「自制心が必要だ」と言うが、私は的はずれの表現だと思う。よりふさわしい答えは、「日常性を大切にすること」だと言いたい。日課を確立して、創造活動を日々機械的にこなせるようになればいいのだ。私の場合、それは毎朝三ページを手書きで書くことだ。三ページ書き終わり、馬にエサと水をあげてから、私はさらに数ページ書く。

p67
イギリスの自然詩人たちにとって散歩は創造活動の一部だった。

p72
私には、内なる池にイメージを補充するための単純なコツがある。それは「アーティストデイト」といって、週一回、興味のある楽しい場所にたった一人で出かけることだ。

p74
引きこもって書きまくる楽しみは、短い期間では有効だが長期間は続かない。売れる本を一冊だけ書こうとするのでなく、つぎつぎと作品を書き続けたいなら、プロセスを大切にしなければならない。ちょうど優秀な陸上選手がコンディションの調整を重視し、レースの出過ぎや過度のトレーニングを避けるように、自分を大切にしなければならないのだ。

p99
しかし実際、書くことは楽しい。「満足する」「自己実現する」「心地よい」などと表現してもいいが、「楽しい」という言葉は本能に訴えかける。

p106
書いていると選択肢が見えてくるため、自分が無力でないことがわかる。責任から逃げているときや重荷を背負いすぎているときに、それに気づける。今この瞬間を愛しているときや何かを変えたいと思っているとき、それに気づける。だからこそ、書いていると人生を変えられるのだ。

p136
泡のように自由に、心をさまよわせよう。それから優しい気持ちで、あなたを幸せにするものは何か考える。

p137
幸せは気分ではなく、決断だ。五〇の幸せのリストを書きだすと、どれほど単純な喜びがあるか、そしてどれほど単純な方法で自分を幸せにできるかに気づける。

p142
他人に出版してもらえたらどんなにいいだろうと考え続けていると、自分の力を失ってしまう。そんなことを考える暇に、まず決意をかため、思いつくかぎり多様な方法や場所で作品を公にすること。皮肉だが、自費出版に本気で取り組む瞬間、作家自身がそれほど自信をもっている作品は、出版社にとっても価値を増すというのもまた真実だ。それは、恋人のいる少女はただそれだけの理由で魅力的に見えるというのに少し似ている。

p149
書くことに関しては、コンピュータと自費出版の時代がきて、さらに興味深い世界が広がりつつある。作品を広めるのに以前ほど出版社に依存しなくてすむのだ。

p154
すべきことを、ただ実行可能な小さなステップに分割すればいいからだ。紙に書きだすことは、そのステップを明らかにし、出口を見つける理想的な方法だ。

p156
ノートと向き合って正直な弱さを探求し表現するほど、私たちは最初は自分に、それから他人にも、人間らしさを認め、思いやりが深くなる。

p160
私にとって書くことに「待った」はない。ふさわしい時間やふさわしい気分を待たずに、ただ書くのだ。

p160
たとえおぼつかない足取りでも、進歩こそが書くことの本質だ。書くことは魂の錬金術なのだ。

p166
「モーニングページじゃなくて小説を書きたいんです」という受講生には、「一定のペースでらくらくと書けるようになれば、小説も一定のペースでらくらくと書けるわ」と答える。

p176
「書け、推敲はいつでもできる」これは私が体験から得た書くときの基本だ。

p180
仕事での悩みが刺激になって、彼女は基本的な事実に気づいた。つまり、出版社は出版するために作家が必要なのだ。意欲的な作家がいなければ、出版社は仕事にならない。出版社が作家など不要だというふりをしても、実際は私たちを必要としているのだ。出版社が作家に「他にいくらでも人はいるんですよ」とほのめかすとき、私たちだって「他にいくらでも出版社はある」のだ。

p181
神は一つの扉を閉めるとき必ず別の扉を開けてくれるというのは、霊的な真実だ。

p189
すべての人にとって必要なのは、自分のペース、勇気、安全な場所を見つけることだ。

pp190-191
富を浪費する方法はいろいろある。まず、私たちは自分の作品を早すぎる時期に相手かまわず読ませてしまう。本来は、銀行が投資家を選別するように読者を選別すべきだ。きちんと読めない人にも読ませ、認めてもらおうとして、感想を尋ねてしまう。読んでもらいたいあまり、街を守る城壁の門を開けてしまう。それはまるで通行人に銀行口座の暗証番号を教えるようなものだ。/識別眼のない読者に作品を読ませることは、破産しかけている人にお金を貸すようなものだ。お金が期待どおりに返されることはないだろう。作品の真価は認められず、彼らは 「最高にすごい」 または「最悪だ」といった極端な感想を述べるだろう。 私は長い体験から、極端な感想は、よかろうが悪かろうが作者の自意識を刺激し、書き続ける妨げになることをっている。熱狂的な反応もまた危険なのだ。/彼らの手に貴重な作品を渡すと、作品を書き上げる能力を台無しにされる。書くことに用いられるべきエネルギーが、原稿を擁護したり批評家たちの意見に納得したりするために費やされるのだ。

p192
学校でもメディアでも批評は大流行だが、上手に批評する技術は教えられていないのだ。/教えてきた体験からいうと、受講生の長所を誉めていると短所はしだいに消えていく。しかし短所ばかり指摘していると、長所が消えてしまうのだ。

pp192-193
私は二十代前半から書評をしている。周知のことだが、いい書評を書くのはとても難しい。長所を具体的に指摘するのは難しいのだ。しかしこれも周知のことだが、酷評するのは簡単だ。短所を具体的に指摘するのは、恥ずかしいほど簡単なのだ。だから、「友人」を「好意的な読者」にするには、作品を渡すとき「もっと読みたいところはどこか、具体的に教えて」と言い添えるのがいいだろう。/私たちは愛から書き、愛から読んでくれる人を選ばなければならない。批評を恐れながら書くなら、ペースが乱れ、声が出なくなってしまう。批判するのが好きな人を読者として選べば破滅を招く。

p195
作家は打たれ強くあるべきではないか、と言う人もいるかもしれない。しかし実際、多くの才能ある作家が打たれ強くないのだ。心を開いて創造活動に取り組むには弱さが必要だ。しかしその弱さこそが創造性を危機にさらすのである。そのため、私たちは細心の注意を払って、どんなときも友情を保てる人を見つけることが必要なのだ。

p201
意識的に音を使うと、文章に無意識の力を取りこめる。視覚的なイメージだけより、もっと微妙で鋭い、たくさんの連想が生まれるのだ。

p205
もちろんできる。ただ自分に許可を与えさえすれば、ほとんどの人にできるのだ。しかし不運にも、私たちはまず自分に許可を与えない。誰かがやってきてパスポートに「本当の作家」というスタンプを押してくれるのを待っているのだ。しかし実際は、私たち自身がその承認を与えなければならない。/出版を考えるとき、私たちは幸運が降ってくるのを待つ。自分で幸運を招き寄せ、突破口を開こうとはしないのだ。しかし、ベストセラーのうち驚くほどのたくさんの本が、最初は自費出版だった。最近では『聖なる預言』もそうだ。それに、たとえベストセラーにならなくても、イメージでしかなかった本を実際に手にできれば、ささやかでも現実に叶った夢への、たしかな満足が得られる。/酷評されることが不安になったら、親切な読者のリストが有効だ。私にも書くのをずるずる引き延ばしてきた探偵小説があったが、それを思いきって書きださせてくれたのは親切な読者だった。昼食を食べながら友人のエレン・ロンゴに読んでもらい、エレンが「それからどうなるの」と聞いてくれたことが書き続ける力になったのだ。

p207
書くためにドライブはいい刺激だ。書くという芸術は大量のイメージを消費するので、深くひんぱんにうまく書くためには、心の中のイメージの池をいつもなみなみとたたえていなればならない。そのために私は車のハンドルを握るのだ。

p211
運転しない人もいるが、作家ならおそらく運転すべきだ。運転しないなら、少なくとも、書き続けるには遠くを見る必要があることを理解しなければならない。[…]車をもっていない人は、バス、電車、自転車に乗ろう。イメージの流れで心を洗い、目で味わうのだ。通り過ぎる教会、墓地、レストラン、ゴルフコースなどのイメージを心の中に取りこもう。人々は日々さまざまな暮らしをしている。大雨の日に外に置いた空っぽのバケツのように、心をイメージで満たそう。

p222
何をすべきかとか、その出来事にどんな意味や価値が隠されているのかがわからず途方に暮れるとき、私はノートを広げてガイダンスを求める。

p228
多くの人たちは、現実は困難なものにきまっていると信じこまされてきた。しかし私はそういう考え方とはおさらばしたい。仕事が簡単に仕上がってはならない理由はない。

p235
おもしろいことに、売れ筋を狙って書くよりもっとも関心のあることについて書くとき、原稿はしばしばとてもうまく説得力をもつので、マーケットもその努力に応えてくれる。