[読書メモ]『ユーザーイリュージョン』
p26
「物理学の会議というのは、いつもこうなんですか。まるでお菓子でも食べているように楽しいものですね」
p119
とかく定義というものは、同語反復(トートロジー)、つまり実際は何も語っていない文章になりやすい(「雨は降るだろう。そうでなければ降らない」「独身男性は全員未婚だ」など)。
p127
言葉はそこにない何かを示唆する手がかりにすぎない。その何かは、言葉の中にはないが、話している人々の頭の中には存在している。
p163
我々の目が見、耳が聞き、その他の感覚器官が伝える情報の 100 分の1だけが意識に現れる[…]意識は、そこに存在する情報より、捨てられた情報によって成り立つ度合いのほうがはるかに大きい。
p226
私たちは、自分で解けない問題に頭を使う。そもそも、非常に得意なことについては頭を悩ませる理由がない。ただ実行するだけだ。意識もせずに。
p231
私たちは自然にシグナルとノイズを区別する。
p280
人間にできても動物にはできないことが一つあります。質問に答えることです[。]
pp298-299
していいことといけないことに関して、ユダヤ教とキリスト教は大きく異なっている。ユダヤ教は禁止的物言いで行いを説く。殺してはならない。盗んではならない。姦淫してはならない・・・・・・という旧約聖書の十戒は、ユダヤ教の道徳基盤を成している。一方、キリスト教は心の持ちようについて語る。十戒が禁じる行為のいくつかについては、そうしたいという衝動を持つこと自体を非としている。してはならないことは、実際にしなくても、しようと思うだけで罪となるのだ。
pp300-301
キリスト教は、正しいことをせよ、悪いことはしたい気になってさえいけない、と説く。ユダヤ教は、悪い行いをしてはならない、と教える。キリスト教が禁じるのは、間違ったことをしようとする衝動であり、ユダヤ教が禁じるのは悪事を働くことだ。そのうえでキリスト教は、正しい行いをしなければならない、と説く。[…](衝動が生じたときに、意識はそれを知らされもしないのだから)行為の衝動を意識が制御できないのであれば、自分の衝動や夢に責任を持てというのは無理な相談だ。
p310
サッカーをしているとき、あるいは子供と遊んでいるとき、0.5 秒という時間は非常に長い。しかし、大人として行動しているときは、取るに足らない。慎みのある洗練された行為は、非常にゆっくりしたペースで行われることが多い。
p352
人が体験するのは、生の感覚データではなく、そのシミュレーションだ。感覚体験のシミュレーションとは、現実についての仮説だ。このシミュレーションを、人は経験している。物事自体を体験しているのではない。物事を感知するが、その感覚は経験しない。その感覚のシミュレーションを体験するのだ。[…]人が直接体験するのは錯覚であり、錯覚は解釈されたデータをまるで生データであるかのように示す、というのだ。この錯覚こそが意識の核であり、解釈され、意味のある形で経験される世界だ。
p419
これらすべての情報を、地球から送り出されたすべての混沌を、宇宙空間はどうして内包できるのだろうか。宇宙は膨張している、というのがその答えだ。宇宙はつねに大きくなっている。ますます多くの空間が現れ、そのおかげで、あらゆるものがたえず冷却されている。
p420
宇宙の膨張は、エントロピーの増大を意味する。
p449
人間の経験と営みの大半は無意識のものであるからだ。