[読書メモ]『コンサートが退屈な私って変?』
p24
音楽社会学者ハンス=ヴェルナー・ハイスターによれば、コンサートでの拍手は古代の面影をとどめる行為であり、その場の全員が音楽に参加し、演奏する側と聴く側という区別がまだ存在しなかったころの名残だ。
p81
長い作品を聴いていてイライラするのは、たいていは長さ自体の問題ではない。ただ長いだけでしっかりした構造がないとか、あるいは前に述べたような長さを支える形式になじめないのが苦痛の原因だ。
p85
ソナタ形式の秘密は単純だ。つまり「音楽とは形式である」。
p134
ジャズでいちばん大事なのは「グルーヴ」、つまり生き生きしたリズムの流れというか、一種のノリだ。
p141
ただし、男どもはこの練習を全然ありがたがらず、そんなことできるかよという顔で嫌がったそうだ。
p168
ありとあらゆる音楽、それが器楽であっても、そのイマジネーションの根本には歌がある。音楽を想像するということは常に、音楽を心の中でひそかに歌うことにほかならない。声帯がもたらす身体感覚とこの創造とは、不可分なのだ[…]。
p175
練習でいちばん難しいのは、じつは練習そのものよりも、ひと様の迷惑にならない場所を見つけることだ。
p188
大勢の演奏者をまとめあげ、ひとつの楽器として鳴らすのは、はるかに難しい。/はじめてオーケストラの前に立つと、まずこの装置をどうやってスタートさせればいいのか、それだけで大問題だろう。
pp200-201
指揮者台の横にはかならずもう一人、「陰の指揮者」が控えている。「コンサートマスター」と呼ばれる人物で、指揮者台の左手最前列に、ヴァイオリンを手にして座っている。[…]彼らはたいて優れた技術の持ち主で、すばらしく正確な演奏が出来る。それによって弦楽器全体を統率し、引っ張っていくのだ。コンサートマスターの技量は、オーケストラ全体の響きを大きく左右する。
p258
サンプラーとは、いわばハイライト集、名曲のいちばんいいところだけをあつめた CD で、既存の録音から一部を抜粋し、再編集(サンプリング)して作ったもの。コンピレーション盤ともいう。ひとくちに言えば、みんなが気に入っているものを、そのまま自分のお気に入りにするわけだ。
p262
ずっと美しいものばかりに浸っていると、感覚がおかしくなる。
p266
そうは言っても、全体としてみれば、サンプラーを作ったり、贈ったり、聴いたりすることは、大した罪じゃない。サンプラー盤を一度聴いたら、次からは自分の好みで再サンプリングして、気に入ったものだけを聴くようになるからだ。
p285
ただ楽しいだけの入門書に終わっていないところに、この本の真骨頂がある。われわれが自明のこととして受け入れているコンサートのしきたりが、じつは自由な楽しみ方を阻害していること。「音楽について語るには一定のルールがある」という発想は、ただのイデオロギーに過ぎないこと。こうした鋭い批判には、日頃クラシックと関わりの深い生活を送っている人ほど、ハッと胸をつかまれるだろう。