[読書メモ][Kindle]『なぜ勉強させるのか?~教育再生を根本から考える~』

Loc 164
子は親の思いどおりにはならないし、あえて言えば、思いどおりにしようとしてはいけない。子は親の所有物(もの)ではないからである。

Loc 652
イギリスのワーキング・クラスの子弟たちは、勉強をまともにするのは恥ずかしいことだと考えている(ポール・E・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』ちくま学芸文庫、一九九六年)。彼らは言葉や文化は支配階級のものだと思っているのである。ここ日本では、言葉や文化が特定の階層のものだとは思っていない。

Loc 764
教育や学校は、子どもを近代人にするためのシステムである。子どもを文化や法に馴染んだ近代人に仕立て上げようとする。

Loc 965
学校と塾は明らかに補完的に併立している。敵対したり、競争したりしているわけではない。塾は学校の授業では物足りない子どものためにもあるし、学校の授業についていけない子どものためにもある。

Loc 980
塾へ通うのも、教室に入って席に着けるのも、講師の指示を受けて学習の態勢に入れるのも、時間を区切って動けるのも、みんな、学校で訓練を受けた成果にほかならない。そして、この訓練にはかなりの手間と時間がかかるのである。

Loc 1056
学校って生活指導という部分が絶対に欠かせない。学習に向かう態度みたいなものをきちっとさせたうえでないと、基礎学力も応用力もつかない[。]

Loc 1139
小学校では、明らかに学ぶ主体になっていない子どもに教えるのである。教えることで学ぶ主体をつくっていくのである。

Loc 1162
私たちの文化においては、ひとの究極的なモデルが不在であるからである。ひとの究極的な理想態があるという発想がない。つまり、「絶対神」の不在である。

Loc 1162
もともと、(近代)学校の教師は、「神」の代理人の牧師の世俗版であることは明らかである。にもかかわらず、私たち日本の「教師」は「神」の代理人であったことはない。せいぜい、天皇や科学の代理人にすぎなかった。子ども(生徒)たちを「知」に誘う存在としては不完全な存在なのである。それでも日本の教師たちは明治以来、不完全なひと的モデルでありながら、教育における〝ひとモデル〟としての役割を果たしてきた。キリスト教を欠いたままで近代的個人を構成してきた。

Loc 1192
子どもが知的・人間的に成長するためには、とりわけ、すっと勉強に入って行けない子どもたちが学べるようになるには、やはりまず親が学校を信頼していなければならない。

Loc 1196
まさに〈全国民が当事者意識を持って〉やらなければならないのは、学校や教師への信頼の回復なのである。

Loc 1259
愚痴は独りごとで言うべきだ。

Loc 1336
私は「早寝・早起き・朝ごはん」運動は、とても結構なことだと思う。それは、子どもに子ども(生徒)としての公共的なあり方を自覚させると同時に、家庭そのものも一種の公共と化さざるをえなくなるからである。

Loc 1420
生活が構成されていないと勉強への取り組みはむずかしい。生活と勉強は地続きだと思う。子どもは精神的に安定している必要がある。親との交流や家庭のあり方は勉学にも大切である。

Loc 1465
普通の教師は、頭のいい子と頭のよくない子がいることを知っている。[…] どの子にも同じようにいい点を求めたりしない。

Loc 1866
子育て(養育)にしろ、学校での教育にしろ、当事者(親・教師)が心がけなければならないのは、まず子どもは親(教師)の思うとおりにならないということである。あるいは、こちらの思うとおりになったら、かえって問題だということである。

Loc 1893
〈かわいい我が子をグングン伸ばしてやりたい〉は、ある意味で親の身勝手を子へ押しつけている。こういう親ばかりになったら、もう日本は滅びるような気がする。なぜなら、わが子の都合や希望や気持ちをはなから無視しているからだ。親の愛情ということで子どもの主体性の無視を全面肯定している。

Loc 1959
テレビのポイントは、誰にでも見てわかるものしか提示しないことだから、それを見ている子どもたちが、「社会はボク(アタシ)にもわかるものだ」と錯覚するのも当然である。

Loc 1993
ここでもう一つ学問的なレベルのことで触れておかなければならないのは、知的な子は知的な家庭から育ってくるという事実である。

Loc 1999
親力が子どもに教育力を発揮しようとしても、その親自身が知的(文化的)な力を本源的に持っていなければ、いくら〈トイレに地図を張〉ったり、〈テレビの横に地図帳を置〉いたりしても、大したことにはならない。

Loc 1999
最近よく格差社会ということが言われて、裕福なお家の子女が学習塾へ行けるので不平等だという論議がなされるが、実は家庭の経済的(お金)な差よりも、文化的(知的)な差が教育的不平等を生み出していると社会学的常識では考えられている。/すなわち、フランスの社会学者のブルデューが実証的に研究して「文化資本」という概念を提示している。その家庭の持つ言語能力・知識・教養・ハビトゥス(文化遺産)が、教育を受ける以前に子どもたちの言語脳や文化性の土台を形成していると言う。ここ日本では、学校(教育)を通じて社会階層が何度も組み替えられているような認識が強いが、ヨーロッパでは、むしろ教育(学校)を通じて階層の差が固定し、社会的不平等が再生産されていると考えられている(文化的再生産と呼ばれる)。

Loc 2121
個人という西欧で発生したひとの生き方は、キリスト教の「神」の支配の下にできたものである。「神」の絶対的価値とつながっていると確信していれば、まわりにいる仲間に精神的に依存しなくても生きていける。

Loc 2282
ひとは他者に勝ったときに幸せになるのではなく、〈他者に役に立つ存在にな〉ったときに幸福や生き甲斐や永遠を感じるのだと、子ども・若者のみなさんと親御さんたちに訴えたい。

Loc 2312
本当に勉強を放棄してしまったら、近代人としての自己の放棄にもつながる

Loc 2549
問題なのは、そういう目先の職業上の目標にからむエサをぶら下げても、若者たちが動かないことである。だいたい、人間が経済的な目標だけで動くものかどうか、大いに疑問である。

Loc 2555
少なくとも、経済的利益をX軸とし、精神的価値をY軸として、その座標上に自己を設定できるようにならないと、ひとの根源的な馬力というか推進力は出てこないと思う。

Loc 2599
勉強は、現在の「私」を変えるためにあります。私たちがどこかで勉強に対する忌避の感覚を持っているのは、きっと、私たちの奥底にある「自然」(ありのまま)が変化することに反発しているからなのでしょう。

Loc 2611
その「ありのまま」を一度否定して、社会や文化に合わせた「ありのままでない」自己を形成しなければなりません。それが勉強することです。

Loc 2611
その「あるべき」人間像は、自分が本当に望んでいる人間のありかたではないかもしれません。人類(社会)が歴史的に文化的につくり上げてきたひとの現在的なありようです。