[読書メモ]『隠された奴隷制』
p64
奴隷は、どれだけ働いてもその結果としての「財産を取得できない人」なので、まじめに労働することに対する「やる気=インセンティヴ」も「動機づけ=モチベーション」もない、ということである。
p74
「民衆の大多数」が「労働貧民 the labouring poor」であることを、当然の事実であるかのように、悪びれることなく認めているのである。
p84
人間は本質的に「自由」な存在なのであり、その自由が侵害されて「奴隷」とされることは人間の本質に反する、ということである。
p192
「社外でも通用する」ことが求められているのは、労働者が解雇されて失業する可能性を遠回しに述べていることになる。
p200
このように個々の労働者に「強い自己」と「責任」を求めるのは、もちろん企業の側であり、労働者は今ではそれを深く内面化して、上司の過大な要求に応えることのできない自らの「弱さ」や「無能さ」を自分自身の責任に帰すことになってしまった。それがたとえ過労死や過労自殺にいたったとしても、川人によれば、「多くの企業は、労働条件や労務管理の問題点を棚にあげ、自殺を労働者個人の責任としてとらえる傾向が強い。
p216
「文明」と「野蛮」の価値観を反転させることでもある。
p229
グレーバーが指摘しているのは、「自由な」賃金労働者とは、主人であると同時に奴隷でもある人間、自分自身が主人と奴隷に二重化してしまった人間だ、ということである。主人としての私は、奴隷の所有者として、私の所有する奴隷を資本家に売り渡す。資本家に売り渡された労働力としての私は、まさに奴隷として、資本家の指揮命令のもとで労働に従事する。契約を交わすのは主人だが、働くのは奴隷である。自分自身をモノだと見なすことによって成立するこのような倒錯した論理が、資本主義的生産様式を支えているのである。
pp246-247
私たちにも、自らを解放する絶対的な権利がある。しかし、ヘーゲルがかつて奴隷にそう期待したように、そしてマルクスが賃金労働者にそう期待したように、自らを解放するためには、自らが闘わなければならない。他人に解放してもらうことを期待して現状を耐え忍ぶだけでは、自らを解放することはできない。自分で何とかしなければ、誰も何もしてくれない。自らが闘ってこそ、他人の協力を得ることも可能になる。
pp247-248
この言葉の画期的な意義は、労働者の「自己責任」意識を解除し、自分に強いられている低賃金・長時間労働の責任を企業の側に投げ返す機能をもったことにある。つまり、「悪い」のは、課せられた仕事をこなせない自分の「無能さ」や「弱さ」なのではなく、こなせないほどの量の仕事を押しつけてくる企業の「不当な」働かせ方にある、という批判の論理を多くの人に示したことにある。自分の会社が「ブラック企業」かもしれないと疑うこと、自分の上司が「ブラック上司」かもしれないと疑うこと、これは言語使用上の小さな一歩だが、「並外れた意識」を獲得するための大きな一歩である。
p248
「定時に帰るのは勇気のしるし、だよ」
p249
たしかに「定時に帰る」には「勇気」がいる。上司の指示を断るには「勇気」がいる。そのためには、新自由主義が要求する「強い自己」や「自立心」とは違った意味での「強い自己」と「自立心」が必要となる。熊沢誠の表現を借りれば、「会社のため」ではなく、「自分の生活のため」に働くのだという確固とした意志である。そして何よりも同僚との連帯も必要になるだろう。ブラック企業の現状、そして資本主義の現状そのものは、個人では解決できないからだ。他の人びとと協力し助け合わなければ、現状を変えることはできないからだ。そのために存在するのが職場の労働組合であり、あるいは個人でも加盟できる地域のユニオンである。/しかし、そのような行動に踏み出す「強い自己」を、誰もがもっているわけではない。その場合は、逃げる、という手がある。これも第六章で見たように、逃げることも、奴隷制と闘う一つの方法なのだ。逃亡することは、「野生化する」ことだった。会社を辞めること、雇われ続けるのを辞めること、会社を辞めて、グレーバーの言う意味での身近な「日常的コミュニズム」に依拠しながら雇われないで生きること。それも一つの階級闘争なのである。